2021-04-23 第204回国会 衆議院 法務委員会 第17号
難民条約を締結したとき、昭和五十六年四月の衆議院外務委員会ですけれども、当時の伊東正義外務大臣が御答弁をされております。
難民条約を締結したとき、昭和五十六年四月の衆議院外務委員会ですけれども、当時の伊東正義外務大臣が御答弁をされております。
私は、かつて、私の農水省の大先輩である伊東正義さん、この方は当時の農林大臣であった河野一郎さんと大げんかをして、それで本省の局長から地方営林局の局長に飛ばされるんです。二段階ぐらいの降格です。そのときに、農水省の若手の官僚、大体課長補佐から若手の課長ぐらいが伊東正義帰還運動というのをやって、大臣が替わった後、すぐ水産庁長官で呼び戻し、その後、政界にも進出をしていくという。
外交こそ国益という言葉は、この委員のメンバーで、きょうまだ来ていませんけれども、百四十二代の外務大臣だった玄葉光一郎代議士が二十代のときに、百九代の外務大臣だった伊東正義先生に手紙を送ったときの言葉が、我が県内では広く伝わっているところでもあります。
これは、かつて、私の農水省時代の先輩でもありましたけれども、伊東正義さんという硬骨漢の政治家、中身が変わらないで表紙だけかえてもだめだと言って総理大臣を断った硬骨漢の政治家ですけれども、その方が、よく係長や課長補佐と懇談をしてくれて、昔の役人というのはこうだったんだ、あるいは、政治家とのつき合いはこうするんだといったようなことを懇談の場でいろいろやっていただきました。
先ほど小川委員も大平先生の話を出されましたけれども、やはり私の地元には、大平さんとまさに夫婦のような関係だった伊東正義先生、まさに宏池会の重鎮でありますけれども、その伊東先生が外務大臣のときに、紅顔まれなる玄葉大臣が二十代後半の県会議員のときに、外交こそ国益という手紙を伊東先生に送って、これは今、ちゃんと会津にも残っています。
それで、日米共同声明で、日米同盟が軍事同盟だと言われた伊東正義外務大臣を即刻更迭されておるんですね。本人が奥ゆかしくて辞表を出したというのもあるんですが、実質的に更迭ですよ。こういう時代だったんですね。 日米同盟は軍事同盟なんでしょうか。今、ニュアンスが違ってきているので、この点について、どうお考えでしょうか。
今の質問は、実は、私自身、政治家になる前は、地方議員、またその前は秘書をさせていただいていて、岸田大臣の同僚の、また同じ宏池会にいた伊東正義先生の後継の斎藤文昭という代議士、その前は新井将敬代議士のところにいたんですけれども、私の師匠筋に当たる伊東正義さんが、鈴木副大臣のお父様が総理のときに、日米同盟発言をめぐって伊東大臣が辞任をしたという経緯もありましたので、あえて確認をさせていただきました。
やっぱりODA、玄葉大臣が二十七歳のときに、当時の伊東正義外務大臣に外交こそ国益という立派な手紙を送られていますから、そうですよ、これは国家戦略なんですよ、ODAというのは、チャリティーじゃないんですよ。あるいは、チャリティーという発想だから、平成二十三年度の話ですけれども、減らしたんですよ、やり玉に上げて。
そしてまた、玄葉大臣においては私の尊敬する福島県議会の私の先輩でもあり、また、党派は違いますけれども、伊東正義先生の薫陶の中で政治家をさせていただいている同じ根っこの政治家であるというふうに認識をさせていただいております。
福島県ということで、私も、会津が、福島県が生んだ伊東正義先生の流れをくむ国会議員として、それは玄葉大臣も同じであります。また、残念ながら、田中防衛大臣、今、棒読み大臣とも言われてしまいましたけれども、今、名前を出させていただきました伊東先生の座右の銘に誠実という言葉があります。誠実な答弁を期待して質問に移らさせていただきます。 震災から一年がたちました。
私も福島県、玄葉大臣も福島県、そして田中大臣もかつては福島県であったということであり、また、私も新井将敬代議士の後、地元の伊東正義氏、世界に誇る福島県が生んだ代議士の後継の斎藤文昭代議士の秘書として地元に帰り、そのときは同じ流れをくむ玄葉代議士が誕生し、そして同じ流れの田中大臣も福島におったわけですが、その後、小選挙区が導入された折、私の仕えていた斎藤文昭代議士もそうでありましたが、重複をせずに、退路
しかし、やはり三月十一日以降、私自身も、大臣とは伊東正義先生の流れをくみ、福島県の出身者でもあり、そしてまた同じ県議会の出身、ある意味では党派を超えて、まさに大臣は私の兄貴分みたいな立場でありまして、そういう中で、また福島の現状を考えたときに、また国の政策の中でも原発の在り方、これが変わってきている中において、さりながら、国際的には原発を売っていくということは、素朴に、純粋に考えても、やはりこれは国民
玄葉大臣、玄葉大臣とは公私共に古くから御指導をいただいておるところでありますし、同じ福島県、また県議会の大先輩でもありますし、また、これはもう党派を超えて、会津が生み、そして福島、日本が生み出した偉大なる伊東正義先生の流れをくむ政治家として私も以前から御尊敬を申し上げてきた次第でありますし、大臣が初当選、無所属でされたときに、私は伊東正義先生のもう一人の後継である斎藤文昭先生の秘書として、大臣が自民党本部
詳細については次回に譲りますけれども、我が郷土の伊東正義先生は、中身変えなきゃ表紙変えても駄目だと言いましたが、実は表紙変えれば変わる場合もありますよ。雪印がメグミルクに変わって、内容なんか誰も精査していないのに企業は良くなったと思っているように、表紙変えるだけで変わるかもしれない。それを指摘させていただいて、次回に質問させていただきます。
○小熊慎司君 私の師匠筋の政治家に伊東正義先生がいますけれども、表紙を変えても中身を変えなければ駄目だという名言残しています。
第八点として、一九八〇年四月に総理の執務室で、伊東正義官房長官と加藤紘一副長官と首席秘書官をしておりました私が顔をそろえて、大平総理と話すことがあったわけでございます。それぞれ忙しいので、このように四人が顔をそろえるということは余りなかったものですから、そのときにいろいろな話をいたしました。
そして、新たに回顧録を発行されたというふうに情報も入っているんですが、その中に、きょうも陳述をされましたけれども、八〇年の四月ごろ、首相官邸の執務室でのやりとりで、伊東正義官房長官あるいは官房副長官の加藤紘一さん、そして森田さんに、例の核の問題について国民にわかってもらえるようなそんな方法はないだろうかというふうな発言があったということで、先ほどもお話がございました。
しかも、その後、伊東正義さんという政治家がおられました。この人が首のすげかえに完全に拒否をして、表紙だけかえてもだめなんだというふうに言って拒否をされました。まさに、この人の姿勢が大政治家としての姿勢ですよ。それに対して今度は宇野さんが引き受けて、物すごい不名誉な形でもって辞職に追い込まれた。それで、その後に今度は安倍さん、それから福田さん、この人たちも不名誉な政権放棄に追い込まれた。
あれはかなり昔でしたけれども、鈴木善幸総理と伊東正義外務大臣のころです。しかし、今や日米同盟は軍事同盟だと言ってだれもはばからなくなってきているんじゃないかと思います。しかし、日米同盟、言葉では同じですけれども、内容は変質してきているんじゃないかと思います。 そういう点で、私は慌てて読んだんですが、実はこれはけさ読んだんです。
御記憶があるかと思いますが、伊東正義外務大臣、鈴木内閣総理大臣、宮沢喜一官房長官。アライという言葉は、allyですけれども、同盟である。隣の方に聞いていただいたらわかりますけれども、間違いなく、正確な訳は同盟。これには軍事は入っていないと訳そうという、英語を知っているという割には信じられない訳をやったある官房長官が当時いらしたんです。
会津の政治家で、昔、伊東正義という人がおりました。私のおじです。彼はこの言葉どおりの政治姿勢を貫き通しました。 では、一番からまいります。 福島県の実情で、お配りの参考資料、このパワーポイントの方も後でごらんいただきたいのですが、全体的には、全国の医師数からすれば少ない県に入ります。
そしてさらに、日中国交回復のために、大平さんや伊東正義さんや多くの苦労した方が周恩来や皆様と一緒になって国交回復をして、その第一世代の人たちはきちっとやったけれども、それが第二世代、第三世代の政治や行政にきちっと引き継いでこられなかった。
私も自民党にいましたから、よく大平さんとか伊東正義さんともよく中国に行ったし、もういろんな方と随分行きました。ですから、私はそれを絶えず当時の大臣なんかにはよく主張してきた人間であります。しかし、それがここ最近は余計それがあいまいになってきましたことが一点。 もう一つは、向こうの政治家も戦争を知らない、ただ教育を受けた人たちが中心になってまいりました。